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「明日の広場」雑感・コラム

□「明日の広場」雑感

「ヒロシマ」という言葉をめぐって、様々な思念が繰り返されるなか、人びとは、「ヒロシマの虚無」というべき、あきらめに似た諦念に侵食されているように見える。人類社会は、「核」という絶大な力、その脅迫的で黙示的なビジョンに宙吊りにされ、行く手に「終着の時」という凍った時の地平を幻視し、地球レベルでの生命の退化と退潮が進行しているように見える。
「ヒロシマ」は、現代の地球化された環境における「生--死」、その振り子を振らしつづける「果てしなき物語」の作者であり、物語の核心をなすものと考える。
不幸の顔はみな同じだが、幸福の顔は様々であろう。
明日は、決して運命づけられた一つの終点に集約されるものでなく、あらゆる「生」の意思と希望によって、無限に再生していくものと信じる。
そして「明日の広場」…場の創出によって、私はヒロシマにある架空の浜辺を夢見る。
その浜辺では、人びとの、様々な、均一に閉じようとする世界から抜け出した意思や表現が漂着し、遭遇し、衝突するだろう。その過程の中で、それら一つひとつが、個体としての真の姿を取り戻し、そして他と交配することによって数々の新生と、かけがえのなくも多様に変化する、新たな時たちが紡がれるだろう。(続く)(石丸良道)


■物語は続く ~「ヒロシマ」の物語り、あるいは「常に在る・不在」

この街に暮らす者は、「広島」「廣島」「ひろしま」「ヒロシマ」という4つの言葉を使い分けている。簡単に言えば、「廣島」は戦前の街、「広島」は戦後の街、「ひろしま」は市民の日常生活により親しいとされる表現で、「ひろしまフラワーフェスティバル」とかという形で使用される。そして問題は、「ヒロシマ」である。このカタカナ表記が、いつごろから使われ始め、何を示しているのであろうか。この表記は、1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験による、静岡県・焼津の漁船「第五福竜丸」の放射能被曝を直接の契機としてまきおこった日本の原水爆禁止運動から生まれたスローガン、「ノーモアヒロシマズ」から一般的に使用され始めたという。20メガトンの水爆実験による「死の灰」が、人々に広島、長崎の原爆被爆の惨禍を想起させる契機となったのである。それ以降、それまでともすればいちローカルな事象とされた出来事が、「ヒロシマ」という表記で、人類の普遍的な記憶として、人類史の中に決定的な位置を占めたのである。そしてこの表記をめぐって様々なイメージや言葉が紡がれていく。
私たち広島に暮らす者たちにとって、このことが、やっかいな問題を引き起こす。
私たちが暮らす街が、「広島」や「ひろしま」でなく、「ヒロシマ」ということになれば、私たちはどこに帰属するのであろうか?
ここで「帰属」という問題は、常に外部との関係性において、つまり「他者」に触れる現場において生じるということを想起しておくべきだが、この8.6以降、私たちが常に回帰する、あるいは外部との関係性において回帰させられる「過去」とは、「あの瞬間」なのである。この「過去」は余りにも強大で広島の他の過去を消し去るかのごとくだ。「ヒロシマ以降」と表現されるように、この過去は、歴史の「起源」であり「0」点とされる。したがって何もない…「グラウンド・ゼロ」いわば「虚空」だ。そこで私たちが常に回帰する過去は実は「ゼロ」、つまり「無い」という存在だから、広島には「無いという過去」があるとされる…「常に在る・不在」。
私たちは原爆の閃光で石に焼き付けられた人影のように、「常に在る・不在」の朝を永遠に生きなければならないのだろうか。

この「常に在る・不在」というデスパレート(desperate)な言い回しは、多分に情緒的なものだろう。たとえばここに古ぼけた写真がある、すでに亡くなったある子どもの写真だ。その子ども、眼差しを受ける時に感じるもどかしさ、違和感…子供は、写真というモノの中に、永遠に(もっとも写真だから劣化するが)固定されているように見える。しかしその子どもは、「もういない」、「もうしゃべらない」…子どもは他者として、凍った夢のような時を生きている。
そしてその感情は、被爆者(生存者)がいだく感情であろう。あの時、突然、家族や友人、風景や歴史、それまでの関係性を失ったとき、心に生まれる「虚空」、その解決できないもの総体に対する苛立ちの心情であろう。上に述べたような人類の「歴史」とか「起源」という言葉を介した「ヒロシマ」をめぐるメタフィジックな語りの前に、まずもってこのことを忘れてはならない。

この夏、私はもうひとつの「ヒロシマ」を知った。
広島が「ヒロシマ」として普遍化される前、カタカナの「ヒロシマ」を使った人物がいた…原民喜。

原民喜の「原爆小景」、1950年、「近代文学」8月号に初出のこの詩集を開いてみよう。
この詩編は、


コレガ人間ナノデス 人間ノ顔ナノデス…

で始まり、


水ヲ下サイ アア 水ヲ下サイ ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ 死ンダハウガ アア…
天ガ裂ケ 街ガ無クナリ
川ガ ナガレテヰル オーオーオーオー…


とカタカナ表記が続き、
最後に、

ヒロシマのデルタに  若葉うづまけ
死と焔の記憶に  よき祈よ こもれ
とはのみどりを とはのみどりを
ヒロシマのデルタに  青葉したたれ

と終わる。

「永遠のみどり」と題されたこの最後の詩のみ、反転されたネガのように意図されてひらがな表記である。そしてさらにこの詩の中、ことさらカタカナの「ヒロシマ」が、精巧に配置され象眼されている。
何が彼をしてこのような表現をさせたのか?
そして彼以前に、カタカナの「ヒロシマ」を語った人間がいただろうか?

この「ヒロシマ」は先にふれた「ヒロシマ」とは、決定的に違う何かを示している。
語り得ぬモノを語ること…ある強烈な光、突然の他者によって、日常の連続性が引き裂かれ異化される風景、レイプされた「時」。
その皮膚の内にまとわりついた記憶をえぐる痛みこそ、彼の「ヒロシマ」なのだ。
物語(交響楽)は鳴り止み、強烈な光にさらされ全ての表象が影を失っていく風景としての「ヒロシマ」、絶対的他者としての「ヒロシマ」、それはカタカナでしか書けない。
とかく普遍的言説としての「ヒロシマ」は、このもうひとつの「ヒロシマ」を曖昧とさせる。
被爆者にとってのヒロシマ、普遍化される前のヒロシマを想起すること‥その想起とは、畢竟「死者たちの語り」を聞くことだろう‥(死者だけが語る権利をもっている?)‥声なき声を聞くこと…その不可能性。それこそ真のドキュメントとしての「ヒロシマ」である。
もうひとつの「ヒロシマ」…その不可能性としてのドキュメント、その「不在」の喚起こそ、日々創造される人々の記憶と、数々の物語(普遍的な語り)に生気を与え続ける。
「ヒロシマからヒロシマへ」…その不断なる往還、それは時間の風化を超え、無限なる「明日」の条件であろう。

(続く)(石丸良道)

■「第二の太陽」
「1945年8月6日、8時15分、ヒロシマの惨禍…あの“突然の朝”、人類は、“第二の光”を経験した。ヒロシマは、人類が、この惑星で、“太陽”と“核”…その二つの“光”に引き裂かれ、それまでとは違った歴史的条件、新しい『人間の条件』のもとで生きなければならないという時代をもたらした。その意味で、ヒロシマは、人類史・後史のまさに起源であり『グラウンド・ゼロ』といえる。」

■“BLIND BEACH” 『盲目の浜辺にて』
「終了キー」をクリックし、ブーンという音とともにPCが切れる。最後の光が吸い込まれるようにディスプレーに消えていく。PCとボクとの相愛関係は…愛とも言えるのだろうか…非情にカットされる。また入力キーを押して呪文を唱えれば、あの愛は、そうあの夢は再び取り戻すことができるだろうか?たぶんそうであろう、いやそうでないかも知れない。だからボクは、クリックが怖い。夢なら夢を見続けていたい。

シャカは、『夢幻よ消え去れ』と言った~アラジンの魔法のビンは壊される必要があるのだ。

幽霊が消え、すべての偶像が崩れ去った後、世界に何が残るのか?
ニルバーナ、覚醒の園。光にあまねく照らし出され、いや光そのもので、影のない永遠の相の内に、ボクたちは初めてモノが視えるのか。ボクたちの盲目は暴かれるのであろうか?

エディプスは両眼を焼かれた…

生命は、太陽という「光の帝王」に囚われている。光は、「生」…その喜びと苦痛の根源である。そして現世とは、「太陽の帝国」のもとで、無数の生命の紡ぐ果てしないシステムであろうか?

シャカは言う、「解脱せよ!」と。新しい光と、眼が…。
しかしボクたちは、この夢幻の輪廻の鎖を離れてどこへ行くのだろうか?

(続く)(石丸良道)


■「浜辺と龍の話」
かって光が到達し、境が生まれた…境はある身体を産んだ…それは“浜辺”である。そして浜辺は、“海”と“島”の話を語り出した…浜辺は、海と島を同時に内包していたのだ。アウラの光暈が昇る産霊(むすび)の場所…人びとは、浜辺で、“龍”の誕生を眼にするだろう。
そして光が打ち寄せる…浜辺は、自らが結ぶ身体の内に、無数の“眼差し”を、無限に連なる“鱗”のように重ねていった…無数の物語の交差を。“龍”は、自身に無数の鱗を、うちよせる波が煌めくように“光”を…無限に反射し合う無数の眼差しを宿しているのだ。
 生は“光”に囚われている…。生は“光の帝国”の内に囚われながら、自身の生成を見据えようとする眼差しそのものであるかも知れない。

生は、まさに永劫への追及であり、停止への拒絶であろう。この欲望を“組み込まれた負荷”として、生は無限の夢を紡ぐ、光の領土に誕生と死とを果てしなくめぐらせる物語を…夢は漂流し始める。夢に酔いしれ夢に醒め、いつしか生は加速し、“第二の光”に遭遇したことを覚る。
人びとは見た、“新しい光”の伝播を…空に、新しい光が止まるのを、浜辺が肥大し、海と島を覆い尽くすのを。そして海の立ち去った後、果てしなく広がる砂漠の前方に、モノが、消滅を忘れた蜃気楼のように投げ出された…眼差しを失った物たち、“常に在る・不在”の浜辺…「終着の浜辺」(J・G・バラード)を。龍は秘めていた、触れられたくない一片の鱗…逆鱗を。

(続く)(石丸良道)

■「ローカルということ#1-先ずはあまりにも抽象的な話し」

時代の転換期をむかえ(本当にそう?)、これからは「ソフトパワー」の時代だと言われています。危機を乗り越えるためには「ソフト」が必要で、また乗り越えた後、残るのは「ソフト」であると。「ソフト」を構築できたものが、次代に花咲くと。
いま必要とされることは、次代の文化をイメージすることです。それは何か?

次代の文化について、その「地球化社会」に対応した文化は何か、私は「Trans-world Culture」というイメージをもっています。まだ漠然としていてその言葉が良いのかどうか分かりませんが、音楽で言うと、一昔前の「World Music」が示すものでは何か言い足らない、そこで便宜上その「World」の前に移動とか越境という意味を指す「Trans」を加えています。
どうして「World」だけでは物足りないのかという話しはこの際やめておきますが、「Trans-world Culture」という言葉で、次代の地球化社会におけるポリ・カルチャー的な展開のあり様と、現状のオルタナティブとして世界各地域における「ローカル文化」の復権と、その相互交流の姿をイメージしています。

ただし「オルタナティブ」という言葉については、この言葉を嫌う方も含め、さまざまなとらえ方があり、それこそ立場によって異なります。いずれにせよ昔風のカウンター・カルチャーと違い、白黒対抗して決着をつけるという平板なとらえ方ではすまされない気がしています。

話しをもとに戻しましょう。「Trans-world Culture」は、ローカル文化の復権という課題を前提にしています。その意味で、「Trans-local Culture」と言えます。

この課題は目の前の広島にも当てはまります。「世界」や「地球」を言う前に、先ず広島のローカル文化をどうつくるかという話しです。もっとも広島の特異性は、「ローカル」としての「広島」と同時に、「普遍性」としての「ヒロシマ」、その両者の課題を同時に引き受けていることであり、広島のローカル文化の確立のためには、その一部に、「ヒロシマ」の考察から導きだされる「地球化社会」における広島の立ち位置を意識した活動や振舞いが含まれていることになります。
広島のこの特異性は、強力な強みになるかも知れないし、結局、強力な匂いを放つローカル文化をつくることに失敗する元凶となるかも知れません。

それに世界各地域に「Trans」する無数の情報に影響される現在の文化状況において、ローカル文化の確立は、昔風のそれとは決定的に違ったものとなるでしょう。情報が世界のすみずみまでに浸透する環境に合った「ローカル文化」が構想されなければなりません。
もともと「ローカル」という言葉は矛盾を含んでいます。まず暗黙の前提として「中央」との関係や対立を含んでいること。もっと進んで、この言葉は常に他者との接触において現れるものであり、「アイデンティティー」という言葉と同じく、他者の存在なしではありえないこと、いや他者の存在そのものがローカルをつくるということです。そしてローカルの復権が、ともすれば偏狭な国家主義、民族主義、地域主義という幻想に煽られる傾向を含んでいることです。
他方、「*ローカル」を捨てて、人びとの日常の生すべてが同質な世界市民的一極普遍システムに吸収されれば良いという議論も極端で、それこそ危険なワナの匂いがします。

確かに「地球化社会」では、ある普遍的世界システムの構築や共有なしにはありえないでしょう。ここではそれを漠然と「*生文化的世界身体」とでも言っておきましょう。この身体は、世界の各地域に、自生的に振る舞うが矛盾を抱えるローカルを常に産み出します。そして産み出されたローカルはそれぞれ、自ら生きるために矛盾を越えて共存の条件を探り、自らを越え(Trans)て変身(Transform)します。そのことによってまたあらたに生文化的世界身体がつくりかえられるというイメージを描くことができます。
このように「ローカル」は、この「曼荼羅」的な世界身体の中で、それ自体固定化するものでなく、動いていくもの、まさに「Trans」していくものだと思います。(続く)(石丸良道)


*ローカル:この言葉を、個々の「固有の生」という意味でも使っています。
*生文化的世界身体:この世界身体において「ヒロシマ」は決定的な意味を持っていると考えます。











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