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リンク

▼協力

広島市中央部商店街振興組合連合会 
(通称:中振連)
ひろしまの街をもっと元気に。街のにぎわいを創出する商店街のネットワーク。
「広島市中央部商店街振興組合連合会」の公式ウェブサイトです。

NPO法人セトラひろしま
さまざまなプロジェクトを展開して「まちづくり」を行う,
NPO(特定非営利活動法人)セトラひろしまの公式ウェブサイトです。

ビストロ M2(emuemu)
心地よい音楽を聴きながら、お酒と会話が楽しめる、カジュアルなビストロです。

榊記彌栄のライブ見聞録
箏曲家 榊 記彌栄の公式ブログです。

ライヴ楽座
ライブハウス、ライヴ楽座の公式ウェブサイトです。


▼「明日の広場」関連リンク
Hiroshima EXsite
EXpression,EXhibition,EXperience……
広島を文化でEXする、そんな場(site)を旧日本銀行広島支店に探る活動です。

▼他企画・プロジェクト

AH! 情報局
ライブイベント「アリスガーデンパフォーマンス広場 AH!」の公式ウェブページです。
広島市中区の広場,アリスガーデンで毎月開催しています。

INDIKET HIROSHIMA
インディーズの祭典「INDIKET HIROSHIMA」の公式ウェブサイトです。

中央公園冒険遊び場 「もとまち自遊ひろば」
こどもたちが自分の責任で自由に遊びつくせる環境を創造していきます。

Art Life Support
NPO法人セトラひろしまとNPO法人アートプラットフォームGによる共同プロジェクトです。
皆様によりアートを身近に感じていただける企画をご提供いたします。

エマニュエル・リヴァの広島展
平成20年(2008)に開催された「エマニュエル・リヴァの広島展」についてご紹介します。
リヴァさんは,映画『ヒロシマ・モナムール(邦題:二十四時間の情事)』の主演女優です。

| リンク | 20時42分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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地球文化イベント=『世界芸術祭(仮称)』開催プロジェクト

地球文化イベント=『世界芸術祭(仮称)』開催プロジェクト
『明日の広場』を拠点会場とした世界的文化イベント=『世界芸術祭(仮称)』の開催を提案します。

■地球の「明日の文化」のための祝祭
4年に1回あるいは5年に1回に行われる地球的な祭り、
明日のための祝祭(セレブレーション)であり、
*来るべき文化スタイルの創造と発信の場となります。

*来るべき文化スタイル:
21世紀的な地球文化(≒Trans World Cultureという概念)としての文化様式の創造・発信・確立。

■会場
「明日の広場」を拠点会場とし、
広島市内また近郊の様々な場所で展開します。

○メイン会場:「明日の広場」(市民球場跡地、あるいは隣接する地点)

○連動会場:
1.広島市内また宮島等近郊の様々な会場
旧日本銀行広島支店、広島市内の美術館、ホール、ライブハウス、ギャラリー、都市広場、公園、ストリート等

2.国内外の連動会場
世界各地に連動イベントの同時開催を広く呼びかけます。

■会期:4年あるいは5年に1回、8月6日前より4ヶ月から6ヶ月の長期にわたります。

*例えば、広島原爆投下記念周年に開催する場合
第1回:2015年(被爆70周年記念) 
第2回:2020年(被爆75周年記念) 以下5年毎

■テーマ:毎回開催時の時代背景から設定されるでしょう。(例えば第1回は「記憶とリバース(再生)」)

■内容
『明日の広場』でのコア・プロジェクトを中心にすえた展示・公演等多様な表現活動の複合的展開。

ジャンル、メジャーアーティスト、インディーズアーティストを問わない
多様な表現プロジェクトが展開されます。

ハイ・カルチャーだけでなく、
市民参加型プロジェクトやジャンル統合型・越境型プロジェクトを推進し、
現代におけるホリスティック(*Holistic)な表現の復権に力を入れます。

また様々な教育プログラムや
広島で作品を制作するアーティスト・イン・レジデンスも展開されます。

それは一種の表現のマーケット(地球文化のショーケース)です。

*Holistic:全体的、包括的、全人的という意味の言葉

【コア・プロジェクト~「明日の広場」における作品展示と関連した表現行動】

プロジェクト開催にあわせその都度
『明日の広場』に新しい作品を設置し、次の開催まで展示します。

また展示を記念するイベント自体が祝祭となります。

こうして『明日の広場』は、
プロジェクト開催ごとに、新しい作品を受け入れ、
新生、リバース(再生)をくりかえします。

【連動するさまざまなプロジェクト】

●ジャンルごとの表現プロジェクト

《美術・ビジュアル表現》
絵画・彫刻・インスタレーション・写真・漫画・フィギュア、他の展示、また共働プロジェクト

《映像表現》
映画・映像作品・アニメーション・ゲーム他、さまざまな展示

《音楽》
クラシック・ジャズ・フォーク・ポップス・エスニック音楽・即興音楽他のライブコンサート、
またセッションや共働作品の公演

《ダンス・身体表現》
さまざまなライブ公演、ダンサーやパフォーマーの共働作品の公演

《演劇》
演劇者による共働作品の公演等 

《建築・デザイン》
新しい建築やデザインの提案 

《文学・哲学》
詩の朗読・文学者や哲学者の会議等

●ジャンル統合型・越境型プロジェクト:
さまざまなジャンルが共働して行われる表現プロジェクト、また市民参加型祝祭等

●その他のプロジェクト

《アーティスト・イン・レジデンスの実施》
さまざまなプロジェクトを実現するために実施。
特に共働プロジェクトにおける作品制作のため、アーティストが広島に滞在します。

《アーティスト作品のマーケットの展開》

《さまざまなシンポジウムや会議、ワークショップの開催・実施》

《さまざまな教育プログラムの展開・実施》

《その他、世界の地域や都市の文化や産業を紹介する企画等、さまざまな企画》

【広島外で展開する連動プロジェクト】

世界各地にICT技術を活用した世界同時プロジェクト等、連動イベントを呼びかけます。

■芸術祭の運営
市民・行政・地元経済界・学術機関・NPO等が一体となって推進する活動母体の形成。

○芸術家の選定:
原則推薦方式によりますが、
推薦母体は、例えば、国家ではなく
地域や都市といった自治体等が考えられます。
(平和市長会議ネットワークの有効活用等)

■LOVE FOR TOMORROW HIROSHIMA 
『祝祭…明日のためのセレブレーション』の考え方

日常の労苦を経て得られた現在ある生、
その喜びその恵みを人びとが集い合うことで共に分かち合い、祝うこと。

そして未来に対して生を脅かす災厄がないように平和と幸福を共に祈念(祈願)すること。

またこれを人びとの積極的で開放的なエネルギーをもって成しとげること。

これは古今、地域を越えて地球上あらゆる「マツリ」の原点となる考え方です。

本プロジェクトの場合、
これを人びとの創造的な表現や活動によって
いわば「地球化社会のマツリ」を行おうとするものです。

■本プロジェクトの基軸となる文化概念

『Trans-world Culture』という概念を提唱します。

『Trans-world Culture』とは、
21世紀の地球化社会に対応する明日の文化スタイル。

世界の各地域、各民族のさまざまな文化を担う人びとが、
ある状況を共有しつつ、互いの差異を尊重しながらも自らを露出(*exposure)し、
相互に影響を受けながら生まれる新しい関係性のもと創造される文化、

またその自らを越えて(trans)共働する人びとの活動スタイルを指します。

このオルタナティブな(現状に取って替わる)文化概念を
本プロジェクトにおける表現活動の基軸とします。

本プロジェクトはこの文化スタイルを世界のさまざまな地域に普及し、
広島がこの文化スタイルのいわば母港(Home Port)となることを願います。

*[exposure]:露出する。人目にさらす。暴露する。
→ある状況の中へ身をさらす行為。(『平和学』における基本行動規範のひとつ)

| 世界芸術祭の提案 | 16時04分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「明日の広場」論点の整理

■市民シンポジウム「明日の広場」090906論点の整理

長時間にわたった今回のシンポジウムで、パネリスト、コメンテーター、また会場よりさまざまな意見、提案が提起された。多岐にわたる視点や論点が噴出し、会場は熱気に包まれた。
各意見については、それぞれ評価される価値があると思われるが、広島の今後の文化をめぐる議論と、旧球場跡地に想定される市民広場をめぐる議論とが行き交い、多少混乱をきたしたことも否めない。それらが、混在した状況にあった。
そこで、今後の議論の深化、発展のためにも、提起されたさまざま論点・視点について、整理が必要と思われる。

まずそもそも今回のタイトルともなっている「明日の広場」の理念をここで再び確認しよう。

●「明日の広場」の理念

広島の地で、人々が感じ、理解しあって、今の営みをよりよいものに、そして希望ある創造をめざし、世界への発信を行う。
 ―広島での新たな市民文化創造の場として―

上記の理念に加えて、特にトピックな問題として、現在旧市民球場跡地に構想されている「市民広場」活用の問題を、今後の広島の文化を考えるための重要なきっかけ・動機、あるいは絶好の機会と捉え、今を逃しては成され得ない議論を市民レベルで形成していこうとする「場」であると位置づける。

この理念を踏まえ、今回のシンポジウムでの大きく二つの論点あるいは主題があった。

●「明日の広場」の論点・主題~二つの問いかけ
【第一の問い】~「明日の文化」をめぐる議論
これからの広島の文化発信=「明日の文化」をどう捉えるのか、どのような方向性や可能性、またどのような企図がありうるのか。

【第二の問い】~「明日の広場=市民広場」をめぐる議論
上記の視点に立つとき、旧市民球場跡地に構想されている「市民広場」は、現実の空間として「明日の文化」を担い実現していく重要な拠点=「明日の広場」となりうるのか。
また「市民広場」の活用や運用について、具体的にどのような方向性や可能性、またどのような企図がありうるのか。

今回提起されたさまざまの論点・視点についてみると、各論点・視点それぞれ、他のそれと深く関連し、相互に浸透し合う性質のものであり、単純に分割・図式化することはできないが、あえて上記二つの議論のフレームのなかに、これらを配置すると、下図(論点・視点の配置図)のように捉えられる。

9.6シンポ論点図式3


では、上の図に従って、各論点・視点また提案について概観してみよう。

●《第一の問い~「明日の文化」》の論点・視点         

【よって立つ文化の方向性とは?】
・「明日の広場」について、私たちは理念的に「新しい市民文化を創造し発信していく場」として捉えている。ではこれからの「新しい市民文化」とは何か、つまり私たちが呼ぶところの「明日の文化」についてどのように考えるのか。
▽「明日の文化」おいて:
・世界的あるいはグローバルな視点で、現在の文化の現実を問うとき、支配的な市場主義的な文化構造とどう向かい合うのか、あるいはそのオルタナティブ(代替するもの)があるのか、あるとすればそれをどう提示していくのか。
・上の考察などを通し、マクロ的な視点で、今後向かうべき文化の姿や文化のスタイルはあるいは文化理念をどう描くのか?「明日の文化」がよって立つ文化の方向性とは、その形成をどう目指すのか。
・これらの議論を、ローカルな広島の議論にどう落とし込んでいくのか。

【主体・アイデンティティー】
「新しい市民文化」=「明日の文化」を支える主体についてどのように考えるか。
▽「明日の文化」おいて:
・世界的あるいはグローバルな視点での議論で、文化の担い手としての想定される「市民」とはだれを指すのか。一なる世界市民なのか。それとも主体性をもった多数で多様な「人びと」なのか。また自立的にふるまうローカル=地域としての主体が確立されるのか。
・多様な主体を想定した場合、主体個々の、またローカル=地域としてのアイデンティティーはどのように形成されるのか。
・上の議論を、広島というローカルな視点に移すと、広島のアイデンティティーについて今どう認識し、今後どう捉えるのか。

【獲得すべき空間・場】
市民が主体的にふるまえる場所や・空間をどのように考えるか。
▽「明日の文化」おいて:
・「明日の文化」の主体~「市民」が主体的に意識を盛り込んでいくことができる空間・場の獲得はどのように可能なのか。
*マルチ・セントラルな場とそのネットワーク的展開という議論も含めて

【「ヒロシマ」をどう捉えるか】
広島で文化を語る場合、圧倒的な影響を与え続け、避けて通れない問題が、カタカナ「ヒロシマ」をめぐる問いかけである。「ヒロシマ」をどう捉えるのか。
▽「明日の文化」おいて:
・「ヒロシマ」をめぐる言説はどう位置づけられるのか。またそのとき「ヒロシマ」の意味や役割はどう捉えられるのか。
・ともすればローカルな事象が、グローバルで普遍的な事象に反映するという、ローカルな視点だけではすまされないHIROSHIMAというローカルな特異性を、どう内面に捉えていくのか。またそのとき、ローカルな視座とグローバルあるいは普遍的な視座、双方をどのように両立させていくのか。

【ヒロシマの記憶】
前項に関連し、「明日の文化」おいて「ヒロシマ」の記憶の問題をどう捉えるのか。
▽「明日の文化」おいて:
・「ヒロシマ」の記憶の継承という問題はどう位置づけられるのか。
・戦後復興期の記憶をどう現在及び未来に活かすのか。
*当時広島が世界から受けた物心にわたるさまざまな援助に対する「恩返し」の議論など

【国際平和文化都市~都市理念の再考】
「明日の文化」おいて広島の都市理念をどのように考えるか。
▽「明日の文化」おいて:
・戦後都市復興の起点となった「広島平和都市記念建設法」をどう捉えるのか。
・同法を起点として出発したその後の都市計画、また文化施策をどう捉えるのか。
・これら「国際平和文化都市」という都市理念は、今後の「明日の文化」形成にとって、どう位置づけられるのか。

【資源】
広島の「明日の文化」おいて、活用されるべき資源とは何なのか。
▽「明日の文化」おいて:
・「ヒロシマ」の力、「ヒロシマ」に関連する歴史・文化的資源、あるいは全世界的な知名度という強みをどのように活用するのか?
・「ヒロシマ」にとらわれない、広島の歴史・伝統・文化資源や自然資源の再認識・再発見及びその活用はどうのように成されるのか?

【仕掛け】
「明日の文化」を推進にあたり、広島の文化活性化のための仕掛けとして何が必要か。
▽「明日の文化」おいて:
〈活動・プロジェクト〉
・「明日の文化」を誘引するためには、どのような活動やプロジェクトが構想されなければならないのか。
・市民によって生まれる多様な活動やプロジェクト、それら個々の活動をどうネットワークとしてつなげていけるのか。
〈教育・文化施策〉
・「明日の文化」の持続的な形成を支える教育や文化施策をどのように考えるのか。
〈文化交流〉
・「明日の文化」を支え、発展させるためには、どのような国内外文化交流の姿が描けるのか。
*文化活動体の国内外ネットワークづくり、世界文化会議の開催等
〈インフラ〉
・「明日の文化」を支えるインフラ整備として何が必要か。
*情報発信、翻訳・通訳サービス、アーティスト・イン・レジデンスの整備、オープンスタジオ等の拠点整備等
〈ホスピタリティー〉
・広島に訪れる観光客やビジター、またアーティスト、文化活動家等に対して何ができるのか。街としてのホスピタリティーをどのように形成できるのか。
・広島人の「もてなす心」の醸成をいかに図るか。
*新たなるアイデンティティー形成を通した新たな自信の獲得によって生まれる「もてなす心」等の議論等

●《第二の問い=「明日の広場」(市民広場)》の論点・視点

【性格と位置づけ】
・平和記念公園と違うのか、違わないのか。違うとしたらどこが違うのか等の議論。
[トポス(土地がもつ力)]   
・市民の自由な創造空間となるようなトポス空間に関する議論。
*押しつけられたシンボル性の付与によって空間の自由度は喪失する懸念が今回の議論でも指摘された。(例えば「折り鶴」設置による影響)

【規制の撤廃】
・都市公園法による規制緩和あるいは撤廃あるいは条例の撤廃に関する問題提起。 
・公園から公共広場へという考え方に関する問題提起。
・特区という考え方(*「広島平和都市記念建設法」を盾にとることも含めて)の提案。

【ソフト】について
[コンテンツ]
・賑わいの創出につながるコンテンツか、芸術・文化発信性を重視するコンテンツか。
*当日実施のアンケートによれば、第一に芸術・文化発信性重視であり、第二に集客性重視であった。
・内に向かった市民生活密着型のイベント等コンテンツ発信か、あるいは外に向かった文化発信重視型か。世界に向かうか、広島の市民に向かうか。「ヒロシマ」を重視するのか、「ひろしま」を重視するのか。
*当日実施のアンケートによれば、世界的な文化イベントを約9割が望んでいるが、定例的な市民イベント開催に対しても約8割が「必要」と答えている。
・他所から招致したコンテンツか、広島発・地元プロデュースのコンテンツか。
*当日実施のアンケートによれば、約9割が広島発・地元プロデュースを望んでいる。
・その他、屋台文化、夜の賑わいの仕掛けづくり等の議論。

[コンテンツの力] ~ 〈集客力〉 〈ツーリズム効果〉
〈誘客力=集客の起点〉
・イベントの継続的に開催にすることで醸成される誘引力を期待するのか。
・イベントにたよらない誘引力の形成は可能か。誘引の起点をアート表現で形成できるのか。
*広島現代美術館からアート・コンテンツを跡地広場にもってくる等(広島現代美術館解体論)
〈集客力〉
・集客性のあるイベントはテンポラリーにしか開催できない。イベントで本当に集客は可能か。
・旧市民球場はそのまま強力なコンテンツ~高校野球やサッカー等、確実な集客力が見込まれる。(旧市民球場保存活用論)。
・人が来ればそれで良いのか。文化発信によるイメージアップあるいは集客は限定的だが質の高いイベントの継続的な開催による誘引力の形成が重要である等の議論。
・集客性のあるものと集客性のないもの-そのバランスのとれた仕組みづくりを考えていく必要がある。

〈ツーリズム効果〉
・周到にプロデュースされたツーリズムに結びつくコンテンツづくりが必要である。
・市民表現型あるいは公民館型のコンテンツは、力が弱すぎてツーリズムに結びつかない。
〈ネットワーク効果〉
・他の文化資源や催しと連動したネットワークで、コンテンツの発信効果を上げるべきではないのか。

【空間・ハード】
・ヨーロッパ型の広場を目指すべきなのか。日本型・広島型の公園型広場空間を目指すべきではないのか。
・空間の自由度を保証すること。また時間をかけてゆっくりと形づくられる自己形成型の空間を目指すべきではないのか。

[デザイン・ポリシー]
・ユニバーサル・デザインの観点の導入。
・サステーナブル・デザインの観点の導入。*「汚く使えること」等の議論。

【運営】
[組織]
・「広場」の統括的な運営組織をどのように捉えるのか。
・「広場」で行われるイベントコンテンツ等、企画やプロモーションを行う組織をどのように捉えるのか。
・運営において市民の参加は可能なのか。そのための仕掛けはそのようなものなのか。
*ネットワーク型のコミュニティー組織の形成、また文化活性化のためのプラットホーム等の形成の必要性の議論等。
[プロジェクト]
・求心力のあるコアとなるべきプロジェクトとは。*世界的な文化芸術祭開催の提案等
・プロジェクトにおける権威づけ、著名人のお墨付きによる効果は必要である等の議論。
[プロモーション] ~〈情報発信〉
・内へ向かう視点:市民による意識の共有をどのように図るのか、そのための情報発信をどのように捉えるのか。
・外へ向かう視点:世界へ向けてどう発信するか。

[運営を支える仕掛け]
*当日実施のアンケートによれば、第一に「情報発信の強化」を約7割が望んでいる。次ぎに、他所からアーティストが参加しやすい環境づくり、文化活動団体との交流やネットワークづくりなど、イベントの企画プロデュースや運営に関連した仕掛けづくりに関心が高い。また日常のイベント展開に密着した仕掛けやサービスへの要望も強い。


●終わりに

前項において、私たちは今回のシンポジウムで提起された各論点・視点そして提案を概観した。言うまでもなく、今回のシンポジウムの目的は、ある統一的な意見を形成し、一つの見解を示すというものではなかった。実際、これらの議論や言説は多様であり、ある場合相反し対立を示している。しかしながらそれらは相互に関連し合い、分割できない一つの複層体を形成しはじめている。私たちはそこに言わば生命体の誕生を見るのである。それはあたかも龍のように、天空に向かって飛び立とうとしているように見える。
今回のシンポジウムを起点とし、さらに広範な市民的な議論の形成へ向かって私たちは進もうと思う。
事実、シンポジウムの終わりにあたり、「テストイベント」の実行提案もなされ、さらなる議論の深化とともに、具体的な行動をもって構想を実証し、パッションの共有を志そうということが提起された…「明日の広場」という場は続く。

| コラム | 10時29分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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REPORT

■REPORT
●ひろしまフラワーフェスティバル~新たな市民文化創造の場 「明日の広場」

ひろしまの「明日の文化」の輝きを願い、ジャンルを超えた情熱的なアートムーブメントをアピール。

日 時 :平成21年5月3日、4日、5日 10:00~18:00
場 所 :平和公園ブロック2 公園本部横 土屋病院北側

主催団体:広島文化会議準備会(明日の広場のためのプロジェクト)

協 賛 :広島市中央部商店街振興組合連合会、ステージユニオン広島、ギャラリーG
協 力 :市民球場跡地利用検討協議会、市民球場跡地利用を考える市民連絡会議、ODC(音楽大好きクラブ)、
ART PROMOTION HIROSHIMA、JAMM’S、Blue lab. NPO法人セトラひろしま 

◎広島文化シーンのミニアンテナショップ

*広島県立美術館・広島市現代美術館・ひろしま美術館、
広島市内3美術館の情報や、

ギャラリーマップ、ライブハウスマップ、展覧会、コンサート情報を配布したり、

アーティスト・オリジナルグッズや、
「HIROSHIMA 1958 エマニュエル・リヴァ広島展」関連のグッズや本、

岡本太郎「明日の神話」誘致活動関連のグッズなど、
広島文化シーンのミニアンテナショップを目指しました。


〈文化情報コーナー・アートグッズコーナー〉↓
               
「明日の広場」プレゼン関係、「旧球場跡地利用」関係の資料パネルを作成し、展示しました。

アート制作コーナー2

〈アーティストによるワークショップ・コーナー〉

若手アーティストによる一般来場者を対象としたオリジナル作品づくりコーナー。
「明日の童話」のキャラクターである「青桐」のペンダントづくりは人気の的でした。

ライブペインティング2

〈Blue lab.によるライブペインティング〉

3日・4日の2日間かけて巨大なパネルに絵が描かれ行き交う人々が見入っていました。

◎「球場跡地・夢・アンケート」の実施

アンケート活動2

〈旧球場跡地利用アンケートのお願い〉                 

アンケート表2

〈アンケート集計パネルの途中解説〉

*なんと3日間で、1,300人のアンケートをゲット、
市民の関心の高さに驚きました。

アンケート結果はアンケート集計パネルでその場で分かるように工夫しました。

「市民広場」や「スポーツ施設」、
それに「子どもの遊び場」に対する要望が多いことが分かりました。

また「折り鶴展示施設」については、
「あってもいいけど、規模はそんなに大きくなくてもいいんじゃない!」
という意見が多かったと思います。

集まったデータの詳しい分析結果は、
後日まとめられ広島市へ提出される予定です。

それにしても、アンケート担当のスタッフのみなさんご苦労様でした。
もちろん、アンケートに協力いただいた方にも…。

◎トーク・イベント

ブーステント横・オープンスペースでは、
○「明日の広場とは?」 
3日、16:00~17:30

“しゃべらー”:
古池周文(広島市民球場跡地利用市民研究会)、石丸良道(広島文化会議)、
榊記彌栄(箏曲演奏家)、「明日の童話」JAMM’S のメンバー、

“まとめ人”:松田弘(広島文化会議)
*世界の「祭り場」として、
常に何かを伝えつづけていく広場のことや、そこで遊ぶ未来の子ども達のことが語られました。

5.3広場トーク2
〈「明日の広場とは?」トーク(5月3日)〉
            
○「球場跡地・夢・トーク」 
“球場跡地-どうしたい?ほら語ってみんさい!” 
4日、13:00~16:30 

“しゃべらー”:牛谷陽一(建築家)、東琢磨(著述業・文化活動家)、古池周文(広島市民球場跡地利用市民研究会)、石丸良道(広島文化会議)、

“まとめ人”:若狭利康(NPO法人セトラひろしま)

*現状の広島市案の説明、
「折り鶴施設」に対する意見、
跡地利用に対しての夢など…

アンケート結果の途中分析もふまえながら、
参加者それぞれの視点で熱く語られました。

たんに広島内の内輪話しでなく、
ひろく県外、国外の人の視点にたった議論の必要性や、
市民による継続的な議論の場の必要性も語られました。

5.4跡地トーク2
〈球場跡地・夢・トーク(5月4日)〉               
           
◎パフォーマンス
5.4パフォーマンス2
〈コンテンポラリー・ダンス by 中島由美子(5月4日)〉        

5.4エアー折り鶴2
〈エアーORIZURU by 沖中志帆(5月4日)〉

*5月4日は、「球場跡地・夢・トーク」と並行して
パフォーマンスが行われました。

中島由美子さんのコンテンポラリー・ダンスは、
途中、売れない?演歌歌手風の歌姫になったり、

来場者の意表をつき、完全に会場の空気を異化してしまいました。
そして風のごとく雑踏のなかに消え去りました。おみごと!

それとコントラストをなすように、
沖中志帆さんの「エアー折り鶴」を
雑踏の中、一点すべてが静止した、周囲と隔絶した沈黙と癒し空間を現出しました。おみごと!

◎「明日の童話」
期間中、市立大学生を中心とした若手アーティストグループ『JAMM’S』による、
参加型アート・プロジェクト『明日の童話』が進行しました。

このプロジェクトは、子どもたちや一般来場者の参加を得て、
平和公園や旧球場跡地一帯を散策しながら、
インスピレーションという素材を集め、
まだ見ぬ未来の物語を紡いでいこうというものであり、

ひろしまの街に思いを馳せ、
未来や過去にあったかもしれない童話を創造しようというものです。

5日の午前中、参加者が集まり、
さっそく「時空の探検」へ出かけました。

そして夕方、いよいよ集めた言葉やイメージを
ストーリーにしようとしたところ、突然の雨!

プロジェクトはとりあえず中断しました。

でもこのプロジェクトは、今後引き続いて展開するらしく、
6月には、カフェ「アイナハイナ」という所で、
何かの発表(ストーリーテリング)があるみたいです。乞うご期待!

*詳しくは…「明日の童話」~まだ見ぬ未来を創造してみる~by JAMM’S 
5.5童話ワークショップ2
明日の童話探検2
〈「明日の童話」時空探検(5月5日)〉 

●広島の明日の文化を考える
 市民シンポジウム 「新たな市民文化創造の場/明日の広場」

日時:平成21年9月6日(日)13:30~17:00
会場:広島県立美術館地下講堂

主催:広島文化会議準備会

協力:広島市中央部商店街振興組合連合会、NPO法人アートプラットホームG
   NPO法人セトラひろしま

進行プログラム:

<第1部>基調報告

1)はじめに(広島文化会議準備会代表・竹澤 雄三)

2)「広場から明日の広場へ」(発表者:古池周文)
◎若手作家によるアニメーション作品上映
 
①「迷走赤ずきん」  pecoraped(杉殿育恵と西尾都のユニット)
②「TOMUSON」 酒井 愛
③「トイレ」     沖元泰山

<第2部>シンポジウム

*パネリスト(五十音順・敬称略) 
石丸 紀興(広島国際大学工学部教授)
北野 尚人((株)中国博報堂執行役員・MD統括担当・兼マーケティング部長)
竹澤 雄三(美術評論家・前広島市現代美術館副館長・広島文化会議準備会代表)
東 琢磨 (著述業・文化活動家)
百々 隆雄((社)広島県観光連盟次長)
門田 大地(RCCテレビ制作プロデューサー)
山本 一隆(中国新聞社 代表取締役副社長)

*コーディネーター
松田 弘(広島県立美術館次長兼学芸課長)

*総合司会兼コメンテーター
若狭 利康(NPO法人セトラひろしま理事長)

*コメンテーター
松波 龍一(都市計画家)

*発表者兼コメンテーター
古池 周文(広島市民球場跡地利用市民研究会代表)
石丸 良道(NPO法人セトラひろしま副理事長)

シンポ09091l

シンポ09092

■このシンポジウムにおける論点の整理
「報告書」ご希望の方は、広島文化会議準備会事務局へお問い合せください。


| REPORT | 13時48分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「明日の広場」雑感・コラム

□「明日の広場」雑感

「ヒロシマ」という言葉をめぐって、様々な思念が繰り返されるなか、人びとは、「ヒロシマの虚無」というべき、あきらめに似た諦念に侵食されているように見える。人類社会は、「核」という絶大な力、その脅迫的で黙示的なビジョンに宙吊りにされ、行く手に「終着の時」という凍った時の地平を幻視し、地球レベルでの生命の退化と退潮が進行しているように見える。
「ヒロシマ」は、現代の地球化された環境における「生--死」、その振り子を振らしつづける「果てしなき物語」の作者であり、物語の核心をなすものと考える。
不幸の顔はみな同じだが、幸福の顔は様々であろう。
明日は、決して運命づけられた一つの終点に集約されるものでなく、あらゆる「生」の意思と希望によって、無限に再生していくものと信じる。
そして「明日の広場」…場の創出によって、私はヒロシマにある架空の浜辺を夢見る。
その浜辺では、人びとの、様々な、均一に閉じようとする世界から抜け出した意思や表現が漂着し、遭遇し、衝突するだろう。その過程の中で、それら一つひとつが、個体としての真の姿を取り戻し、そして他と交配することによって数々の新生と、かけがえのなくも多様に変化する、新たな時たちが紡がれるだろう。(続く)(石丸良道)


■物語は続く ~「ヒロシマ」の物語り、あるいは「常に在る・不在」

この街に暮らす者は、「広島」「廣島」「ひろしま」「ヒロシマ」という4つの言葉を使い分けている。簡単に言えば、「廣島」は戦前の街、「広島」は戦後の街、「ひろしま」は市民の日常生活により親しいとされる表現で、「ひろしまフラワーフェスティバル」とかという形で使用される。そして問題は、「ヒロシマ」である。このカタカナ表記が、いつごろから使われ始め、何を示しているのであろうか。この表記は、1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験による、静岡県・焼津の漁船「第五福竜丸」の放射能被曝を直接の契機としてまきおこった日本の原水爆禁止運動から生まれたスローガン、「ノーモアヒロシマズ」から一般的に使用され始めたという。20メガトンの水爆実験による「死の灰」が、人々に広島、長崎の原爆被爆の惨禍を想起させる契機となったのである。それ以降、それまでともすればいちローカルな事象とされた出来事が、「ヒロシマ」という表記で、人類の普遍的な記憶として、人類史の中に決定的な位置を占めたのである。そしてこの表記をめぐって様々なイメージや言葉が紡がれていく。
私たち広島に暮らす者たちにとって、このことが、やっかいな問題を引き起こす。
私たちが暮らす街が、「広島」や「ひろしま」でなく、「ヒロシマ」ということになれば、私たちはどこに帰属するのであろうか?
ここで「帰属」という問題は、常に外部との関係性において、つまり「他者」に触れる現場において生じるということを想起しておくべきだが、この8.6以降、私たちが常に回帰する、あるいは外部との関係性において回帰させられる「過去」とは、「あの瞬間」なのである。この「過去」は余りにも強大で広島の他の過去を消し去るかのごとくだ。「ヒロシマ以降」と表現されるように、この過去は、歴史の「起源」であり「0」点とされる。したがって何もない…「グラウンド・ゼロ」いわば「虚空」だ。そこで私たちが常に回帰する過去は実は「ゼロ」、つまり「無い」という存在だから、広島には「無いという過去」があるとされる…「常に在る・不在」。
私たちは原爆の閃光で石に焼き付けられた人影のように、「常に在る・不在」の朝を永遠に生きなければならないのだろうか。

この「常に在る・不在」というデスパレート(desperate)な言い回しは、多分に情緒的なものだろう。たとえばここに古ぼけた写真がある、すでに亡くなったある子どもの写真だ。その子ども、眼差しを受ける時に感じるもどかしさ、違和感…子供は、写真というモノの中に、永遠に(もっとも写真だから劣化するが)固定されているように見える。しかしその子どもは、「もういない」、「もうしゃべらない」…子どもは他者として、凍った夢のような時を生きている。
そしてその感情は、被爆者(生存者)がいだく感情であろう。あの時、突然、家族や友人、風景や歴史、それまでの関係性を失ったとき、心に生まれる「虚空」、その解決できないもの総体に対する苛立ちの心情であろう。上に述べたような人類の「歴史」とか「起源」という言葉を介した「ヒロシマ」をめぐるメタフィジックな語りの前に、まずもってこのことを忘れてはならない。

この夏、私はもうひとつの「ヒロシマ」を知った。
広島が「ヒロシマ」として普遍化される前、カタカナの「ヒロシマ」を使った人物がいた…原民喜。

原民喜の「原爆小景」、1950年、「近代文学」8月号に初出のこの詩集を開いてみよう。
この詩編は、


コレガ人間ナノデス 人間ノ顔ナノデス…

で始まり、


水ヲ下サイ アア 水ヲ下サイ ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ 死ンダハウガ アア…
天ガ裂ケ 街ガ無クナリ
川ガ ナガレテヰル オーオーオーオー…


とカタカナ表記が続き、
最後に、

ヒロシマのデルタに  若葉うづまけ
死と焔の記憶に  よき祈よ こもれ
とはのみどりを とはのみどりを
ヒロシマのデルタに  青葉したたれ

と終わる。

「永遠のみどり」と題されたこの最後の詩のみ、反転されたネガのように意図されてひらがな表記である。そしてさらにこの詩の中、ことさらカタカナの「ヒロシマ」が、精巧に配置され象眼されている。
何が彼をしてこのような表現をさせたのか?
そして彼以前に、カタカナの「ヒロシマ」を語った人間がいただろうか?

この「ヒロシマ」は先にふれた「ヒロシマ」とは、決定的に違う何かを示している。
語り得ぬモノを語ること…ある強烈な光、突然の他者によって、日常の連続性が引き裂かれ異化される風景、レイプされた「時」。
その皮膚の内にまとわりついた記憶をえぐる痛みこそ、彼の「ヒロシマ」なのだ。
物語(交響楽)は鳴り止み、強烈な光にさらされ全ての表象が影を失っていく風景としての「ヒロシマ」、絶対的他者としての「ヒロシマ」、それはカタカナでしか書けない。
とかく普遍的言説としての「ヒロシマ」は、このもうひとつの「ヒロシマ」を曖昧とさせる。
被爆者にとってのヒロシマ、普遍化される前のヒロシマを想起すること‥その想起とは、畢竟「死者たちの語り」を聞くことだろう‥(死者だけが語る権利をもっている?)‥声なき声を聞くこと…その不可能性。それこそ真のドキュメントとしての「ヒロシマ」である。
もうひとつの「ヒロシマ」…その不可能性としてのドキュメント、その「不在」の喚起こそ、日々創造される人々の記憶と、数々の物語(普遍的な語り)に生気を与え続ける。
「ヒロシマからヒロシマへ」…その不断なる往還、それは時間の風化を超え、無限なる「明日」の条件であろう。

(続く)(石丸良道)

■「第二の太陽」
「1945年8月6日、8時15分、ヒロシマの惨禍…あの“突然の朝”、人類は、“第二の光”を経験した。ヒロシマは、人類が、この惑星で、“太陽”と“核”…その二つの“光”に引き裂かれ、それまでとは違った歴史的条件、新しい『人間の条件』のもとで生きなければならないという時代をもたらした。その意味で、ヒロシマは、人類史・後史のまさに起源であり『グラウンド・ゼロ』といえる。」

■“BLIND BEACH” 『盲目の浜辺にて』
「終了キー」をクリックし、ブーンという音とともにPCが切れる。最後の光が吸い込まれるようにディスプレーに消えていく。PCとボクとの相愛関係は…愛とも言えるのだろうか…非情にカットされる。また入力キーを押して呪文を唱えれば、あの愛は、そうあの夢は再び取り戻すことができるだろうか?たぶんそうであろう、いやそうでないかも知れない。だからボクは、クリックが怖い。夢なら夢を見続けていたい。

シャカは、『夢幻よ消え去れ』と言った~アラジンの魔法のビンは壊される必要があるのだ。

幽霊が消え、すべての偶像が崩れ去った後、世界に何が残るのか?
ニルバーナ、覚醒の園。光にあまねく照らし出され、いや光そのもので、影のない永遠の相の内に、ボクたちは初めてモノが視えるのか。ボクたちの盲目は暴かれるのであろうか?

エディプスは両眼を焼かれた…

生命は、太陽という「光の帝王」に囚われている。光は、「生」…その喜びと苦痛の根源である。そして現世とは、「太陽の帝国」のもとで、無数の生命の紡ぐ果てしないシステムであろうか?

シャカは言う、「解脱せよ!」と。新しい光と、眼が…。
しかしボクたちは、この夢幻の輪廻の鎖を離れてどこへ行くのだろうか?

(続く)(石丸良道)


■「浜辺と龍の話」
かって光が到達し、境が生まれた…境はある身体を産んだ…それは“浜辺”である。そして浜辺は、“海”と“島”の話を語り出した…浜辺は、海と島を同時に内包していたのだ。アウラの光暈が昇る産霊(むすび)の場所…人びとは、浜辺で、“龍”の誕生を眼にするだろう。
そして光が打ち寄せる…浜辺は、自らが結ぶ身体の内に、無数の“眼差し”を、無限に連なる“鱗”のように重ねていった…無数の物語の交差を。“龍”は、自身に無数の鱗を、うちよせる波が煌めくように“光”を…無限に反射し合う無数の眼差しを宿しているのだ。
 生は“光”に囚われている…。生は“光の帝国”の内に囚われながら、自身の生成を見据えようとする眼差しそのものであるかも知れない。

生は、まさに永劫への追及であり、停止への拒絶であろう。この欲望を“組み込まれた負荷”として、生は無限の夢を紡ぐ、光の領土に誕生と死とを果てしなくめぐらせる物語を…夢は漂流し始める。夢に酔いしれ夢に醒め、いつしか生は加速し、“第二の光”に遭遇したことを覚る。
人びとは見た、“新しい光”の伝播を…空に、新しい光が止まるのを、浜辺が肥大し、海と島を覆い尽くすのを。そして海の立ち去った後、果てしなく広がる砂漠の前方に、モノが、消滅を忘れた蜃気楼のように投げ出された…眼差しを失った物たち、“常に在る・不在”の浜辺…「終着の浜辺」(J・G・バラード)を。龍は秘めていた、触れられたくない一片の鱗…逆鱗を。

(続く)(石丸良道)

■「ローカルということ#1-先ずはあまりにも抽象的な話し」

時代の転換期をむかえ(本当にそう?)、これからは「ソフトパワー」の時代だと言われています。危機を乗り越えるためには「ソフト」が必要で、また乗り越えた後、残るのは「ソフト」であると。「ソフト」を構築できたものが、次代に花咲くと。
いま必要とされることは、次代の文化をイメージすることです。それは何か?

次代の文化について、その「地球化社会」に対応した文化は何か、私は「Trans-world Culture」というイメージをもっています。まだ漠然としていてその言葉が良いのかどうか分かりませんが、音楽で言うと、一昔前の「World Music」が示すものでは何か言い足らない、そこで便宜上その「World」の前に移動とか越境という意味を指す「Trans」を加えています。
どうして「World」だけでは物足りないのかという話しはこの際やめておきますが、「Trans-world Culture」という言葉で、次代の地球化社会におけるポリ・カルチャー的な展開のあり様と、現状のオルタナティブとして世界各地域における「ローカル文化」の復権と、その相互交流の姿をイメージしています。

ただし「オルタナティブ」という言葉については、この言葉を嫌う方も含め、さまざまなとらえ方があり、それこそ立場によって異なります。いずれにせよ昔風のカウンター・カルチャーと違い、白黒対抗して決着をつけるという平板なとらえ方ではすまされない気がしています。

話しをもとに戻しましょう。「Trans-world Culture」は、ローカル文化の復権という課題を前提にしています。その意味で、「Trans-local Culture」と言えます。

この課題は目の前の広島にも当てはまります。「世界」や「地球」を言う前に、先ず広島のローカル文化をどうつくるかという話しです。もっとも広島の特異性は、「ローカル」としての「広島」と同時に、「普遍性」としての「ヒロシマ」、その両者の課題を同時に引き受けていることであり、広島のローカル文化の確立のためには、その一部に、「ヒロシマ」の考察から導きだされる「地球化社会」における広島の立ち位置を意識した活動や振舞いが含まれていることになります。
広島のこの特異性は、強力な強みになるかも知れないし、結局、強力な匂いを放つローカル文化をつくることに失敗する元凶となるかも知れません。

それに世界各地域に「Trans」する無数の情報に影響される現在の文化状況において、ローカル文化の確立は、昔風のそれとは決定的に違ったものとなるでしょう。情報が世界のすみずみまでに浸透する環境に合った「ローカル文化」が構想されなければなりません。
もともと「ローカル」という言葉は矛盾を含んでいます。まず暗黙の前提として「中央」との関係や対立を含んでいること。もっと進んで、この言葉は常に他者との接触において現れるものであり、「アイデンティティー」という言葉と同じく、他者の存在なしではありえないこと、いや他者の存在そのものがローカルをつくるということです。そしてローカルの復権が、ともすれば偏狭な国家主義、民族主義、地域主義という幻想に煽られる傾向を含んでいることです。
他方、「*ローカル」を捨てて、人びとの日常の生すべてが同質な世界市民的一極普遍システムに吸収されれば良いという議論も極端で、それこそ危険なワナの匂いがします。

確かに「地球化社会」では、ある普遍的世界システムの構築や共有なしにはありえないでしょう。ここではそれを漠然と「*生文化的世界身体」とでも言っておきましょう。この身体は、世界の各地域に、自生的に振る舞うが矛盾を抱えるローカルを常に産み出します。そして産み出されたローカルはそれぞれ、自ら生きるために矛盾を越えて共存の条件を探り、自らを越え(Trans)て変身(Transform)します。そのことによってまたあらたに生文化的世界身体がつくりかえられるというイメージを描くことができます。
このように「ローカル」は、この「曼荼羅」的な世界身体の中で、それ自体固定化するものでなく、動いていくもの、まさに「Trans」していくものだと思います。(続く)(石丸良道)


*ローカル:この言葉を、個々の「固有の生」という意味でも使っています。
*生文化的世界身体:この世界身体において「ヒロシマ」は決定的な意味を持っていると考えます。











| コラム | 18時02分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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